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第2話 知らない婚約者は、令嬢の値段をよく知っていた

last update 公開日: 2026-04-03 12:35:05

 婚約者。

 その一言が、頭の中で嫌なくらいはっきり反響した。

「……冗談だろ」

「冗談で済む段階ならよかったのですが。あなたは今、王都で最も噂になっている令嬢の一人です。元婚約者の子爵令息ハインリヒ・フォン・ローゼンベルクとの破談騒ぎ、持参金を巡る家同士の対立、感情的な振る舞い、ついでに服毒」

 ついでにで済ませるな。

 元婚約者。持参金。令嬢。

 どれも俺の人生と無縁だった単語なのに、今はそれが俺を潰しかけている。

「……記憶が曖昧で」

 とっさにそう言ってから、自分の声がちゃんと令嬢っぽく聞こえたことに気分が悪くなる。

「目覚めたばかりで、頭が混乱していて……」

 ユリウスの目が細くなる。

 本当なのかを見極めるような視線だった。

「では、今の状況だけ簡潔に伝えます。

 あなたの名はリーゼロッテ・フォン・グラーフェン。侯爵家の令嬢です」

 侯爵家。

 令嬢。

 その二語だけで、背筋が冷えた。

 この世界の俺は、最初から「家に属する女」なんだと分かってしまう。

「元婚約者との破談騒ぎの最中にあります。

 醜聞は王都中に広がっている」

「元婚約者?」

「子爵令息ハインリヒ・フォン・ローゼンベルク」

 名前に覚えはない。

 だが、胸の奥で説明しづらいざらつきが走る。

 この身体に残った何かだ。

「あなたは感情的な令嬢として扱われ、家の立場も悪化している」

「……感情的、ね」

 その言い方は気に入らない。

 でも、そういう女だったんだろうとも思う。

「でも、いくら感情的だって、毒を飲むなんて相当だろ」

 ユリウスをまっすぐ見る。

「なんでそんなふうに追い込まれた?」

「……そこから説明します。

 あなたの家は、格式はあるが資金に余裕がない。

 婚約と持参金に絡む問題で、今かなり不利です」

「持参金?」

「娘を嫁がせるには、金がいる。

 場合によっては、それで家が傾くこともあります」

 何だそれ。

 言葉の意味は分かる。

 だが、それが自分に向けられた話だと思うと、急に気分が悪くなった。

 この世界での俺は、ただ女の身体になっただけじゃない。

 いくら持たせて嫁に出せるか。

 そういう勘定の中に置かれる側なんだ。

(前の世界も都合がいい歯車だったけど。こっちも変わらないな)

「……顔色が悪いですね」

「当たり前だろ」

 思わず吐き捨てる。

「目が覚めたら女になってて」

「女になっていて? 元は男だったとでも?」

 そうだと言おうとして、俺は黙った。

 このままじゃ、おかしいと思われるにきまってる。

「それで?」

 ユリウスが先を促す。

「……それで、持参金がどうとか婚約がどうとかで値札つきの商品みたいに扱われて。

 自殺未遂?

 醜聞?

 知らないけどさ。

 そんなの全部、結局は『扱いにくい女はこうやって処分します』って話だろ」

 前世で見てきた理不尽が、形だけ変えて目の前にある気がした。

 人間の中身じゃなく、都合の悪さだけで切り捨てられる感じ。

 ユリウスはしばらく黙っていた。

 やがて、低く言う。

「……面白いことを言いますね」

「褒め言葉か?」

「今はまだ、評価保留です」

 腹が立つ。

 その沈黙の中で、初めてまともに理解した。

 俺はこのまま放っておかれれば、女として、令嬢として、家の不良債権として好きに処理される側に落ちる。

 前世みたいに、気づいたら終わっていた、で済む話じゃない。

 これは、生き残れるかどうかの話だ。

「……で」

 俺はシーツを握りしめたまま、ユリウスを睨んだ。

「お前は何しに来た」

 彼は俺をまっすぐ見返す。

「あなたが、生き残る気があるのかを確認しに来ました」

 その問いは妙に静かで、妙に重かった。

 生き残る気があるか。

 そんなの、決まっている。

「……ある」

 もう二度と流されたくない。

 前世の最後にそう決めた。

 この身体でも、この世界でも、それだけは変えたくなかった。

 ユリウスの瞳が、ほんのわずかに和らぐ。

「そうですか。

 ならば、打開策は一つあります」

「……何だ」

「俺と結婚してください」

 空気が止まった。

「は?」

「契約結婚です」

 あまりにも簡単に言われて、意味が頭に入るまで少し遅れた。

「あなたは俺の婚約者として、いや、妻として公に立つ。

 俺はあなたの家の信用低下を止める」

「待て」

「持参金は要りません」

 その一言が、頭の中で強く響いた。

 持参金は要らない。

 金の付かない傷物の令嬢を欲しいと言っているのだと、さすがに分かった。

「……なんで、俺――」

「俺?」

 ユリウスに聞き返されて、しまったと思った。

 違う。この身体で、その言い方はまずい。

「……いや、なんで私なんだ」

 乾いた声でそう聞くと、ユリウスは少しだけ目を細めた。

「もともと、あなたとの婚約は家柄の釣り合いとしても、政治的にも悪くない話でした。

 ですが、さっきので確信しました」

「何を」

「あなたが、ただのお飾り令嬢ではないことを。

 ならば、この婚約は、俺にとってさらに価値のあるものになる」

「……利用価値があるってことかよ」

 ユリウスは答えなかった。

 代わりに、一歩だけ近づかれる。

 それだけで身体がびくりと反応する。

(……くそ、この身体)

 理性では警戒しかない。

 なのに、この身体は距離が近いだけで勝手に身をすくませる。

 怖いのか、嫌がっているのか、自分でも分からない。

 最悪だ。

 ただ、聞いた限りは、こいつの出す条件は悪くなさそうだ。

 だけど、強い条件を突きつけられた時、すぐに返事をした側から足元をすくわれる。

 時間を取れ。

 情報を集めろ。

 その上で交渉しろ。

 社畜時代に骨まで叩き込まれた教訓だった。

「……返事は待てるか」

 ユリウスは即答した。

「明日中です」

「明日?」

「それ以上は待てません」

 冷たい声だった。

「明日中に返答がなければ、あなたの意思は無視します」

 思わず目を見開く。

「は?」

「時間切れということです」

 あまりにも当然のように言うものだから、言葉が詰まる。

 なんだこいつ。

 冷血宰相の噂、たぶんそのへんから来てるだろ。

 でも同時に感じる。

 あなたの意思は無視するという言葉。

 こいつにはそれをできる力があるんだろう。

 だから余計に腹が立つ。

「……分かった」

 吐き捨てるように言う。

「明日中に返事する」

 ユリウスは小さく頷いた。

「結構」

 それだけ言って踵を返す。

 扉が閉まる。

 一人になって、俺は深く息を吐いた。

 知らない身体。

 知らない家。

 知らない婚約騒ぎ。

 その上、冷血宰相との契約結婚。

 最悪だ。

 けれど――

 ――明日までに、この世界で生き残るための答えを出さなければならない。

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